2007年06月16日

珠玉の言葉

ここ数日びっくりするくらい眠かったのだが、今日は特にそれが顕著だった。
眠くて眠くて仕方ない。
バイトに行くまでも、準備するぎりぎりの時間まで寝てて、その帰り、無印に寄り収納関係や寝具など物色、大徳寺をちょっと散歩して帰宅、その後もすぐ寝てしまった。
そういえば、昨日は財布を忘れて出かけてしまい、同志社の人文研の人にご迷惑をかけたのだった。
あー、また行かないと。

小林秀雄を読んでいて、あぁ珠玉の言葉とは、こういう言葉、文章のいうことをいうのかと思った。

「モオツァルト」より――

「彼にとってほんとうに肉体を持つとは、大きな鼻や不器用な挙動を持つことではなかった。その為に恋愛に失敗するという様な事では、更になかった。尤も、彼は、何事も避けたわけではない。彼は、そういう肉体を提げ、人並みに出来るだけの事はやってみた。併し、大きな鼻と不器用な挙動では大した事は出来なかっただけである。彼は、人間の肉体のなかで、一番裸の部分は、肉声である事をよく知っていた。彼は声で人を占う事さえ出来ただろう。だが、残念な事には、裸の肉声は、いつも惑わしに充ちた言葉という着物を着ている。人生をうろつき廻り、幅を利かせるのも、偏に、この纏った衣裳の御蔭である。肉声は、音楽のうちに救助され、其処で生きるより他にはない。実を言えば、僕は、モオツァルトを、音楽家中の最大のリアリストと呼びたいのである。[・・・]近代の所謂リアリスト小説家たちが、人生から文学のうちに、どれだけの人間を、本当に救助し得たであろうか。彼等の自負する人間観察技術が、果して人間の着物を脱がせることに成功したか。この技術は、寧ろそれに似合わしい新しい衣裳を、人間の為に、案出してやる事に終らなかったか。彼等の道は、遂に、「われわれは、お互に誤解し合う程度に理解し合えば沢山だ」というヴァレリィの嘆きに行き着かなかったであろうか。奇妙な悪夢である。いずれ、夢から醒める機は到来するであろう。併し、夢は夢の力によっては覚めまい。」

「或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽くした、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似できる、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。彼が大即興家だったのは、ただクラヴサンの前に坐ったときばかりではないのである。独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされた事はなかった。模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞える程、独創という概念を化物染みたものにして了った。」

「彼は、時間というものの謎の中心で身体の平均を保つ。謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。自然は、彼の膚に触れるほど近く、傍に在るが、何事も語りはしない。」


「無常という事」より――
「歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じないし美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。」



posted by ば at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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